このところ「詰碁」に興味をそそられている。「碁石の生き死に」の練習問題であるが、断腸の思いをした僕の直腸ガン歴も1年9ヶ月目に入った。左腎機能は失ったかに見えるが、今のところ腫瘍マーカーも基準内で再発の兆しはないようだ。
この間「死」に関する本を何冊かは読み考察を行った。多分健康な状態が今も続いておれば「終活」についてはあまり考えたりはしなかっただろう。いや考えたとしても実感を持って深くは想いを馳せなかったと思う。
職業柄人の生き死には日常的に遭遇しているが、なかなか自分に置き換えてみようとはしなかったのである。
死は恐くはなくなったが、死が訪れる最後の最後まで苦しむのは辛い。穏やかな死、平安に満たされた死が迎えられるように祈ろう。
始めに戻るが四天王・山下敬吾の手筋から詰碁を解く本はとても面白くアマの初段程度の僕にはとても面白く、有益であった。まだまだ生きる手が沢山あるなあと知らされた次第である。特に「捨て石を使って反転攻勢に出る」と言う手筋には快感を禁じ得ない。
さて今ひとつ「宇宙」と「脳」にはとても関心がある。初めてアインシュタインの「相対性理論」を知った時は全く理解不可能、不可能の連続。しかし根気よく関連のある本を読むうちに霧の向こうに何か見えてきたような気がするのである。量子論もそうである。多くの物理学者は観測と実験を積み重ねて宇宙の謎に迫りつつある。素晴らしい事だ。
ただ不思議に思うのは「宇宙」や「脳」を研究する科学者の全部とは言わないが殆どが「無神論者」であるということ。言い換えれば「進化論」を唱える人々も「無神論者」。
多分それは西洋において「神は6日間で世界のあらゆるものを創って7日目に休まれた」と言う聖書に記載された創造を今日もそのまま事実として信じている多く人々に対する科学者の三下り半が「神はいない、つまり無神論」なのであろうか。今日のアメリカ社会の特に教育分野において「無神論或いは進化論」対創造科学論の対立を招いているのであると思われる。
鵜浦 裕著「進化論を拒む人々」参照 青木保憲著 「アメリカ福音派の歴史」参照
その点日本社会では「創造論者」は少数派。キリスト教徒が国民の1%有るか無いかのお国柄であり、「鰯の頭も信心から」と凡ゆるものに神が宿る」と多くの人々が自然に受け入れられる社会において「神とは、宗教とは?!」と深刻に考える人は極めて少ない。
この事が返って日本のクリスチャンにとって聖書の七日間の「天地創造」の物語も「進化論」も両方ともごく自然に受け入れられるのであろう。深刻な問題を引き起こす西洋社会とは違う点だ。
無神論者のローレンス・クラウスが書いた「宇宙が始まる前には何があったのか」(青木 薫訳 文藝春秋)と言う本を読んでも唯々尽きせぬ興味が湧き、知的好奇心を喚起させられるが、「信仰」には些かの負の影響は無く、むしろその逆である。
クラウスが描く「宇宙」や「地球生命約38億年の進化の物語」を読んでも「無神論者」になるのかと言えばむしろ更に「インテリジェント デザイン」を強く感じるのである。但しこの「インテリジェント デザイン」と言う言葉は無神論者が一番忌避する言葉なので慎重にならねばなるまい。
あと何年か生かせてもらえるか分からないが平安のうちに「死」を迎えられるように今日も祈ろう。
科学で言うところの観察は「祈り」であり、実験は「賛美」であると僕は思う。二股をかけているようで実はひとつであると言うのが僕の実感である。
脳生理科学者の殆どが無神論者、と言う点については後日考えてみようと思う。脳について詳しく知る事は自分も仕事の一部であり更に深く関わりたいと思う。